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そして~幕末~最期の継承者へ

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日掲載

   寛政6年(1777)、淵岡山の3代目にあたる淵貞蔵が会津を訪ねる。3日の滞在中、会津の門徒をはじめ、井上安貞・中野義都・矢部湖岸(後の三子)、学徒等と共に藤学の神髄を論じ合っている。
 ※淵貞蔵は岡山の嗣子半平に男子がなかったため、息女おきんの聟として養子に入る。貞蔵は北方(喜多方)上高額の東条方秀(前の三子)の孫である。清蔵の子として生れる。貞蔵は、岡山の子半平の後を継いで京都の嗣堂、学館の堂王として藤樹学派の最高の責任者となった。
  祠堂・学館の主が会津から出て岡山派を継承していることは、いかに会津学派(学徒)が周囲から信頼され、学派研究の質が高かったかを示すものである。
  後三子の後継者といわれるのが、坂内親懿(1738~1818)と三浦親馨(1808~84)である。
 坂内親懿は、姓は菅原、氏は坂内、諱を親懿、助十郎と号す。山郡稲田村(現・喜多方市岩月町)の長(村長)なる。その後小沼組の郷頭となり漆村に住んだ。晩年には剃髪して北川恕三と名のった。若くして井上安貞の門下に入り藤樹学を学ぶ。その後、中野義都の唯一宗源神道の教えに接し、44歳の時に唯一神道に入る。
 天明6年(1786)には江戸から箱根・伊勢・京都に入り、岡山の廟を詣でて京都の藤樹学館に泊まり、会津から岡家に養子となった貞蔵の子である惟倫と藤学を話し合う。それから近江に入って藤樹書院を訪ね、藤樹の墓を参拝し、加賀越中・越後を回って帰村している。
 文化4年(1807)には藩から心学(藤樹学)奨励の指示を受け、翌5年には学校奉行と郡奉行より心学師範を命じられる。
 親懿の著書には、『岡山先生示教録』、『岡山先生示教録別録』、『二見直養芳翰録』、『菅原親懿年譜』、『北川恕三覚書』、『北川恕三覚書別録』などがある。 
 坂内親懿の後継者が三浦親馨である。親馨は天保7年(1836)に道統軸を受けて学派の中軸となった。その後弘化2年(1845)に道統軸を真宮謙長に伝え、次いで穴沢準説に伝え、準説から再度、安政7年(1860)に三浦親馨に返伝した。
 三浦親馨は天保7年(1836)に『会津藤樹学道統譜』をまとめた。
 明治17年(1884)77歳で世を去った三浦親馨を最後に、220年余続いた会津藤樹学(心学)の学統継承者は絶えた。


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