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藤樹学(心学)の禁制

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

 天和年間(1681~83)には、会津領内の藤樹学(心学)の学徒1000人余といわれ、隆盛をきわめた。学徒のなかには、在来の仏道から離れ、魚鳥を供えて死人の葬祭を行う者がいたり、夜間に開かれた清座は、藩に抗する徒党とみられたりと、不可解な集団として藩の役人に見られた。
 また、藩学の中心は朱子学であり、山崎闇斎の厳しい学風「敬外義外」(まず自分の心を正すこと、即ち外界からの触発によって情のきざす以前の心(未発の心)を正すことが求められ、自己の内面における厳しさだけでなく、他者に厳しくはたらきかけ、これを正すこと)であった。
 それと異なる、良知とか意念などの言葉を使い、また「良知に致る」といった教えは、心に内在する良知を超えて「天を戴き祈る」という宗教的性格を持った教えであり、これも藩の役人には不可解に映った。
 そして天和3年(1683)12月27日)、禁令が出された。
「近来心学を学び、其類多党を結、密に集り致執行、其類の内に死者有之時は、尋常之葬に事替り、仏者を離れ取置之仏事施僧之営をも一切不仕之由、粗相聞侯、御大法を不禅如此所行、大に不届成仕方に思召侯、自今以後御制禁に侯、侍は不及申、町在々に至迄存此旨、心学之学び堅相止侯様」(『会津藩家世実紀』)
 その後、養庵・謙安・方秀の三子は藩に呼び出され、「その方どものいう心学とはどのような教えを相語っているのか。くわしく申し聞かせよ」と尋問されたのに対し、

  • 一人は「天下の大道を相学び侯」
  • 一人は「天下の中道を相学び侯」
  • 一人は「孝悌忠信の道を相学び侯」

と答えている。
 このように、三人の言葉は、「相学び候」と答えているとおり、高い所から下の者に押しつけるような高圧的な指導や教導でなく、共に道を学ぼうとする謙虚な態度で接する姿勢がみられ、藤樹の教えを継ぐ岡山の精神がしっかりと引き継がれている。
 貞享2年(1685)12月24日、次第に事情もわかり、怪しむものはないと確認され、疑いも晴れ、禁止令が解かれた。そして解禁後の北方の藤樹学は、藩の容認のもと、ますますさかんになった。


 


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