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「後の三子」といわれた人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日掲載

 小荒井村の矢部文庵や会津藩士の島影文石らのあとには、「後の三子」といわれた井上安貞(1726~90)中野義都(1729~98)・矢部湖岸(1717~1802)らが藤樹学を継承する。
 井上安貞は諱を国直といい豪傑として知られている。 藤樹、岡山の学問を学ぶとともに、大阪の木村難波、江戸の二見直養の教えをよりどころに、矢部文庵・島影文石・矢部湖岸・中野義都らと藤樹学に励み良知の真義を会得した人である。
 中野義都は通称作左衛門、理八郎という。藩士中野義信の子として生まれる。保科正二に仕え、正直・潔白な人として知られる。唯一宗源神道を学んでいる。兄との家督問題から熊倉に隠れ、のち上高額に草庵(荻薄堂)を設けている。天明3年(1783)、藩から豊秀流芸術の再興を命じられ、天明8年には神道待講を命じられる。熊倉・上高額に居を移した時は、藤樹学徒井上安貞・矢部湖岸・坂内親懿らと交流し藤樹学の奥義を論究している。著書に藤門の学問信奉者46人の肖像と事跡を書いた『藤門像賛』がある。
 矢部湖岸は通称覚右衛門と呼ばれ、五十嵐養庵の孫で矢部文庵の養子となる。
 湖岸は藩主容頌候から町学校の子弟の教育職に任じられ、広く孝悌忠信の道を説いた。地方の農民にも塩川は1と6のつく日、漆は2と7のつく日、上高額は3と8のつく日、小田付は4と9のつく日、小荒井は5と1のつく日を巡回日として藤樹学の教えを説いていたという(『北川子示教録』三浦常親編)。


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