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遠藤謙安

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

 会津北郷岩崎村(現・喜多方市岩月町)の人で、村長(肝煎)を勤め、のち漆村に移り小沼組の郷頭職を勤めている。諱(いみな)は玄道、庄七郎という。その継嗣の常尹も郷頭を継いでいる。自らを謙安と称し、その学問は淵岡山に学び、父母への孝心は他に類を見ず、会津藩候から表彰された。その事蹟は『会津孝子伝』や『日新館童子訓』などに掲載されている。正徳2年(1712)11月27日没す。岩崎村の太用寺に埋葬される。
  遠藤謙安の親孝行ぶりは、『新編会津風土記』小沼組漆村の項に褒善者遠藤荘七郎として以下のように述べられている。
  「この組の郷頭で、はじめ小田付組岩崎村の肝煎を勤めている。性は生まれつき謙遜な人で、よく人のためにはかり実義深く村民を教導し、農業を怠らず励むことを教えている。暇のある時は子ども達を集めて条目を読み聞かせ、その意味を理解させ、そのため風俗は改まり、争論は少なくなったという。またよく父母につかえ、年老いた父母のため主屋の近くに休養の住居を設け、父母が早朝庄七郎のもとに来て、萬事につけ指揮できるようにしている。冬期間の雪積期には、父の未だ起床しない前に起き、自ら雪踏を行ない、老父の通路を便ならしめ、このことは自らの仕事として使用人にも知らせることはしなかった。」
   また謙安は、謙虚できものすわった性格の持主でもあり、正しければ自己の主張をまげず、農民の上に立つ郷頭として、行政側に立つ役職でありながら常に農民側の立場になって考え問題を処理しようと努カし、勇断をもって実行する人であった。
  元禄10年(1697)農民の家屋用材木の伐採を、山役所に願いでた際、役所は樹木不足を理由に切り出しを認可しなかったので、自ら山に入り樹木の有無を調査した。これを藩命に反する行為として罰せられたが、多くの農民の請願によって許されるという事件を起している。農民から信頼され信望の厚い人であった。


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