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『十八箇條問記』

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

  東條方秀の『十八箇條問記』は、嘉永7年(1854)三浦常親の書いた序によると、岡山が延宝七年(1879)に会津に住む東條との問答をまとめたものである。
『十八箇條問記』の一部を紹介したい。

  • (問)夜の気分・心が不愉快に感じられ、だが夜明けまでの休養で取り直すようにしなければと思っている。このようなことは悪い心がけなのだろうか。
  • (答)夜の気分の快・不快は、昼の間の心に受け感じた束縛が原因であり、夜明けの養い(心の養い)をもって取り直そうとしておられること、後進者を教え導く心やさしい考えで大切なことだ。朝の目覚めがさわやかであれば、行動を起こそうとする意志も先に出ると思う。こんなとき、控え目にその心を抑えることが大切で、このことは古い賢人の書状にも見えている。
      概して良知というのは、是非、すなわち正しいことと正しくないことを見くらべて、心を動かす意志の善悪を知り、確かめることで、始めにあっても終わりにあっても、それを知ることから入ることが大切である。
  • (問)夜の気分もよく、夜明けが快い気持ちで目ざめたとき、意気に感じ易くなるが、このようになることは夜明けの心がけ、休養の仕方が悪いからなのだろうか。
  • (答)境遇や地位がよくても、意気・心だてだけになり易いのは、初学者に見られることで、何を心がけなけらばならないか、努力しなければならないか、目的は何なのかをしっかりと立てていないからだと思われる。
      天から与えられた性、すなわち本質は静にして動かず、天理に通じるものである。意気や心持ちは一片の形ある物にすぎず、寒さや暑さが過ぎ去るようなもので、これを止めようとしても何の益にもならない。このことは愚かなことではあるが、ほとんどこのように心得ているのが普通である。
     ただ欲に動き、物事がはかどらないことを意念、すなわち情欲といい、心を苦しめることなく、人として踏み行うべき道をわきまえ、愛敬(敬は愛にもとづく)の心を持ち、心の内にさっぱりとして、わだかまりのないことを良知というのである。
  • (問)平凡な者の受け入れの思いは、われながら気に入らず、例えば墨を摺った水で墨を洗うようなものと考えられる。だからといって、どうすることもできず、この点にっいて御教示いただきたい。
  • (答)墨を摺った水で墨を洗うというのは面白い喩で、これはみな古くからの悔みごとといえる。なぜならば、至誠の本体は草木に生気があり、流れる水が滞らないのと同じように、日一日と進歩がなければ、受け入れようとすることも、考えただけで、心の働きが弱いのではないかと考えられ、この所に手を下す工夫が必要かと思われる。大方の学者は、心に添わないことがあれば、これを咎め是を直そうとばかり考えるため、知らず知らずの内に意念(情欲)からだけの受け入れとなりがちである。禅家に犬を引いてお堂に上るの喩も珍しいことである。要は草木の生気や流水の生き生きとした流れなど、至誠の本体に求められるならば、自らの心に逆らうものではない。将棋を囲む子どもたちに遊びの片側に、達者な者がいて、駒の配りを指図したけれども、とどまってしまい、その後が続かず、過ちをおかしてしまった。このような対局にあっては、即座の考え、思いの閃きが大切で、他に良い方法はないのではと、その場の人たちは拍手をし一笑にふしている。

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