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雄国新田村

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

雄国新田村は寛文5年(1665)には家数124軒、男338人、女239人、馬40疋、牛1疋で、高も300石2斗4合であったが、さらに方々から入植がすすみ文化6年(1809)には4集落に12の小名がつき、109軒の雄国新田村となった。同15年(1818)の調べでは1,293石1斗4合の石高になっている。

本林

 本林のあたりから東側は密林地帯となっていたのでこの名があり、河沼郡勝常村(湯川村)から折笠義通が来往した。

八木沢

 八木沢には大沼郡赤留村・八木沢村(大沼郡会津高田町)から森田姓の人々が来往した。本林の端村。

芦平

 葦平(芦平)のあたりは、もと湿原地で葦が繁っていたが河沼郡島村(河東町)から加藤・武藤姓の人々が来往した。

七本木

 七本木は当時、一根七幹の杉の大木があったのが地名の由来だという。万治2年(1659)渡部弥左衛門綱宗が高柳村(喜多方市熊倉町)からこの地に移り、寛文5年(1665)常世村(耶麻郡塩川町)の反対を押し切って川前の下より雄国掘抜堰の水を分け、七本木まで9丁を開削し新掘を造った。この堰を弥左衛門堰と呼んでいる。
七本木の小名となった川前には上川前村(耶麻郡北塩原村)から斎藤姓を名乗る人たちが移住した。

雄国新田村の周辺の村々

 この時期に前後して各村の端村のかたちで開発されている。例えば、小沼組内では、滝沢新田(高柳村)が承応元年(1652)に拓かれており、外に道地新田(舘村)、勝本新田(小沼村)、山神新田(金沢村)などがある。雄国山麓の開発は会津藩前期の新田高激増の一翼を担っていた。
「新編会津風土記」にみる雄国新田村(『喜多方市史別巻1』より[PDFファイル/1MB]

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