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雄国沼の水で新田開発を計画

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

 明暦3年(1657)9月、平左衛門は、藩の許可を得て隧道工事を始める。平左衛門の父、吉次は、かねてから雄国山麓傾斜地一帯の開田に着眼していた。その用水を山越した雄国沼から引くという開墾疎水を考えていた。新田開発を藩に請願していたが、明暦3年(1657)に許可が下りる。
 同年9月より平左衛門は父吉次に代わって雄国沼から水を引き小沼峠の山腹を180間(約226メートル)掘り抜くという大工事に着手する。
 まず雄国沼の東辺に石の小祀を建て、水神様をまつり大工事成就の祈願を行い、さっそく工事にとりかかるのである。
※雄国沼の水を利用する場合、まず水の出口に堤防を築き、沼に多くの水を貯える必要があった。その上で沼の西側の山にトンネルを堀り、そこから水を出すようにすることであった。堤防の工事はそれなりに進められたが、小沼峠にトンネルを掘る工事は当時の技術では大変に難しいものであった。

雄国堤

 大塩平左衛門が雄国谷地に造った堤は、長さ201間の付土手を築いて水を湛え、東西180間、南北198間、周り647間、深さ9尺で、七本木・本林・葦平・獅子沢の4カ村の田畑合わせて62町9段4畝21歩を潤す。この堤は雄国山にあるので「雄国堤」と呼ぶ。

雄国掘抜堰

 雄国堤から流れ出たこの水は、小沼・金沢・吉沢・高柳・常世へ流れ落ちる。この堰を「雄国掘抜堰」と呼ぶ。その堰守は獅子沢の秋山家が代々勤め、堰守は帯刀を許可されていた。
雄国沼案内図(「雄国新田開発と大塩平左衛門」)[PDFファイル/29KB]

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