ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

開墾と入植

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日掲載

 万治2年(1659)、雄国掘抜堰が完成する。郡奉行は検地役人を伴い現地を検分した。その結果、高3000石かまたはそれ以上の新田の開発が可能ということになった。
 翌万治3年(1660)4月、会津藩は平左衛門の願いのとおり雄国新田開発を許可し、その土地を平左衛門に与えた。藩内の田畑を持たない百姓100人余から開拓参加の申出が郡奉行あり、そのうち90軒余が雄国新田に小屋を掛けた。
 この新田開発のため、大塩平左衛門は私財の殆どすべてを使い果たしたが、そのほかに万治3年(1660)、新田に入植した百姓たちの夫食米にあてるため金子100両と米300俵を、金子は年1割、米は年2割の利息、3カ年返納の条件で会津藩から借用している。
 会津藩も援助の手を差し伸べ、郡奉行の富岡久兵衛や矢吹清兵衛、村田嘉兵衛などが協力して現場を指揮した。また郡内から4000人の人夫を調達して新しい田が開墾され、入植者も増えた。そして灌漑反別約70町(約6943)の雄国新田が開かれたのである。
  寛文4年(1664)はじめて年貢米を上納する。
 寛文5年に、川前下手より七本木まで新堀9丁を開削(今の弥左衛門堰)した渡部弥左衛門網宗などが、それぞれ開墾にあたっていた。 隧道工事の遅れは開墾事業の着手を遅らせる結果となり、平左衛門は事業完遂のためにも藩より社倉米、金の借用をしながら入植農民を耕地の開墾に従事従事させざるを得なかったが、万治年間には、戸数74戸になり、新田開発による鍬下年季(無年貢期間)3年が切れる寛文4年はじめて年貢米を上納し、平左衛門の新田開発計画は実を結んだ。


このページの先頭へ