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不幸な出来事(雄国新田事件)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

 寛文5年(1665)、雄国新田が着々と進んでいるときに平左衛門は気の毒な事件にまきこまれた。いわゆる雄国新田事件である。
 万治3年に平左衛門は入植農民の扶持米にあてるため藩より金子100両米300表を借りうけた。その後、年賦償還にて分納して皆済した。ところが皆済した金米に対して藩納戸役人より返済の催促をうけた。それで平左衛門と藩の納戸役の北郷弥惣右衛門・平嶋七兵衛との間で争論となった。その年の2月17日、雄国新田の惣百姓の連判で藩に訴え出た。裁判の結果、納戸役の悪事がばれ、納戸役は切腹、平左衛門は騒ぎを起こした原因をつくったとして、けんか両成敗により代官職・知行を召し上げられ、平百姓に降格された。
 平左衛門は権利回復の嘆願(延宝5年)を藩に願いで、新田村の農民もこれを応援するが、聞き入れられなかった。このため、平左衛門は雄国新田にも住みにくくなり郷里の大塩村に隠居する。
 そして貞享3年(1686)2月17日、聴許もないまま大塩にて不遇のまま世を去った。
 元禄8年(1695)、平左衛門の死を悲しんだ雄国新田村の農民達は平左衛門の霊を平左衛門が生前に雄国沼工事の安全祈願をした貴船神杜(工事成功後、寛文5年に雄国沼より七本木に分神)に合祀して、冥福を祈った。命日旧3月17日には花祭を行った。現在でも、平左衛門様(貴船神社)と称えて崇敬している。
 墓は北塩原村大塩長泉寺にある。「省巌道悟信士 五十嵐吉実塚 貞享三丙寅二月十七日塩塩丙寅二月十七日焉」と刻まれている。


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