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五十嵐養安の略歴

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

 会津北郷小田付村(現・喜多方市)の人で、姓は平、諱(いみな)は直言、覚兵衛と称した。京都に登上り淵岡山に学び、矢部惣四郎のようにその名は京都でも聞こえた。遠藤謙安・東條方秀とともに会津の三子といわれる。宝永5年(1708)3月朔日67歳で没す。岩崎村太用寺に埋葬される。
  五十嵐養庵の教えやその思想は、孫の矢部直言の編纂による『五十嵐養庵先生語類文集』により知ることができる。
 また、岡山が京都の葭屋町に屋敷を買い求め、藤樹先生の御祠堂を建てるようと奔走していた時、養庵は学館の建設のため、全国にその趣旨を知らせ、自らは会津の同志からの出金を募り、熊倉村に質蔵を建てて質屋を営み、利益を京都の岡山に送金した。


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