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中江藤樹

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

 江戸時代初期の儒学者で、日本における陽明学派の始祖といわれる。慶長3年(1608)3月7日近江の国高島郡小川村の中江吉次の長男として生れた。名は原、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門という。藤樹は号で、別号は珂軒(もくけん)、顧軒ともいう。祖父吉長は伯耆国米子藩主加藤貞泰の家臣で、父吉次は近江国高島郡小川村で農業に従事していた。
 9歳のとき祖父吉長に引き取られ、翌年加藤家の転封にともない、伊予国大洲に移住する。 11歳で『大学』を読み、独学で朱子学を学び始める。15歳の時、祖父吉長のあとをつぎ、伊予大洲藩の藩士として禄100石を受ける。17歳で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒する。19歳のとき郡奉行となる。27歳の時、母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、郷里小川村へ帰る。そこで、私塾を開き、武士や近況の人々を相手に「心の学問」を教えはじめる。酒を売り米を貸して生計を立てたという。 『礼記(らいき)』の教えどおりに30歳で結婚するなど、儒教の礼法の順守を志していたが、33歳のとき、大きな転機を迎える。 それは、『孝経』に深い意味を見いだしたこと、太乙神(たいいつしん)を祭りはじめたこと、『翁問答』を著したこと、『王竜渓語録』を入手し陽明学を知ったことなどのことからうかがい知ることができる。 34歳のとき伊勢の皇太神宮に参拝する。また儒教の礼法を固守する弊害を認めるようになる。 37歳のとき『王陽明全書』を読み、陽明学にだんだんと傾倒していくようになり、王陽明の知行合一・致良知説を唱するようになる。
 藤樹の屋敷に藤の老樹があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。藤樹は儒学、医学を講義して多くの門人を養成した。藤樹の教えは身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透した。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山などがいる。また、大塩平八郎(陽明学を学び、知行合一を信じ、自宅で洗心洞という私塾を経営した)、吉田松陰(熊沢蕃山の思想に傾倒した)など異才もいる。
 藤樹は、生涯を通して師につくことがなく、ひたすら独学で、人間の道を探求し続けた。また名利を避け、清貧の中で求道生活を続けた高徳の人として広くその名を知られ、数々の逸話が伝えられる。死後とくに名声が高まり、「近江聖人」と呼ばれるようになった。武士が人の上にあって世を支配した江戸時代に、人間として生きるべき真実の道を求めて実践したのが中江藤樹なのである。


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