道統者、継承者
- 藤樹先生
- 岡山先生
- 大河原養伯
- 荒井真庵
- 矢部惣四郎
- 五十嵐養安(庵)
- 遠藤謙安
- 東條長五郎
- 遠藤松斎
- 森代松軒
- 東條清助
- 小池七左衛門
- 田中泰庵
- 平塚多助
- 矢部文庵
- 島影文石
- 東條清蔵
- 東條東林
- 淵貞蔵
- 東條新左衛門
- 井上作左衛門
- 井上安貞
- 矢部湖岸
- 栗村伊右衛門
- 鈴木佐助
- 五十嵐忠右衛門
- 東條新十郎
- 北川親懿
- 東條武右衛門
- 栗村以敬
- 東條廣右衛門
- 矢部徳次右衛門
- 中野義都
- 加藤銀蔵
- 新明半兵衛
- 長島平七
- 石川与左衛門
- 五十嵐仁右衛門
- 矢部甚次郎
- 坂内伊兵衛
- 井上忠左衛門
- 矢部寛左衛門
- 穴沢準説
- 三浦友八
- 眞宮謙長
- 穴沢元章
- 大島如水
- 森雪翁
- 赤城誠意
- 磯部源左衛門
1.藤樹先生
中江藤樹は慶長13年(1608)3月7日、江州(近江)高島郡小川村に生まれる。長じて大州藩主加藤貞泰に仕え、寛永11年(1634)、母への孝心から近江に帰り門人の指導にあたる。その数は数百人といわれている。人々は近江聖人と称していたが、41歳の短命で亡くなっている。
2.岡山先生
岡山先生は名を四郎右衛門と称し、故あって岡源右衛門に改めている。洛外の岡山に住んだところから岡山先生と称した。奥州仙台藩の出身で江戸に出て、幕臣一尾伊織に仕えた。近江に伊織の知行地があったことから、藤樹先生の存在を聞き、家を訪ね門人となる。藤樹の高弟として孔子の顔回(がんかい)のような人であつた。藤樹の没後、京都に学館を造営し、先師の祠堂(しどう)を建て、その道を全国20余国に広めた。当時の大賢人として、藤樹学の宗家といえる。貞享3年(1686)12月2日没し、東山永観堂に埋葬された。その門人数百人といわれている。
3.大河原養伯
会津若松の人で医術を業とし荒井真庵とともに実学の京師を求めようと諏訪神社に詣で、神宣を得て京都に登り岡山先生に逢う。先生から良知の微妙を学ぶ。帰省後、その学問を矢部惣四郎に教え、これより会津に藤樹学が普及することになる。荒井子とともに会津藤樹学の祖といわれ、子孫は代々医師として藩侯に仕えている。
4.荒井真庵
会津若松の人で大河原養伯とともに医師を業とした。二人は常に一緒で、その身体は異なるが、功績・功労は同類の人であった。
5.矢部惣四郎
会津の北郷にある小荒井村の人で、諱(いみな)を惟方といい常人とは違い聡明な人であった。荒井・大河原両人の話しを聞き、京都に登り岡山先生に藤学を学んでいる。先生は惣四郎を「使えて君命に辱じない人」と評している。会津に帰ってからは、五十嵐養安・遠藤謙安・東條長五郎の三子に藤樹学を伝えている。ここに三子は岡山先生の学徳を知り、自らも京都に登り直接岡山先生に逢い、藤樹学の微妙を得て帰省し、藤学の普及に力を尽している。矢部は不幸にして短命であったが、その徳化は消えることはなく、会北における藤樹学の祖といわれている。延宝5年(1677)12月29日没、岩崎村太用寺に埋葬される。
6.五十嵐養安(庵)
会津北郷小田付村の人で、姓は平、諱(いみな)は直言、覚兵衛と称した。京都に登り岡山先生に学び、矢部のようにその名は京都でも聞こえた人である。京都で学んだ儒者として、遠藤・東條とともに会津の三子といわれる。宝永5年(1708)3月朔日67歳で没す。岩崎村太用寺に埋葬される。
7.遠藤謙安
会津北郷岩崎村の人で、村長(肝煎)を勤め、のち漆村に移り小沼組の郷頭職を勤めている。諱(いみな)は玄道、庄七郎と称し、その継嗣の常尹もまた郷頭を継いでいる。自らを謙安と称し、その学問は岡山先生に学び、父母への孝心は他に類を見ず、会津藩候から表彰された。その事蹟は『会津孝子伝』や『日新館童子訓』に掲載されている。正徳2年(1712)11月27日没す。岩崎村の太用寺に埋葬される。
8.東條長五郎
会津北郷上高額村の人で、村長(肝煎)を勤め、諱(いみな)は方秀と称した。その学問は岡山先生に学び、孝行の人として聞こえ、会津藩候から表彰され、『会津孝子伝』にも載せられている。兄は田辺一夢といい、新井田村の村長(肝煎)で禅学にも造詣が深い。元禄9年(1696)2月17日没する。『十八箇條問記』を著している。
親しくお互い感化し合い、藤学を信じ学んだ藩士の中には、落合権太夫・伴清左衛門・一柳氏名不明.大原六太夫・牧原源六・同只右衛門・村越七右衛門(他に数人いるが、藩士にかかわる者を除く)がいる。落合は徳行の人で、中野義都の著『藤門像賛』に詳しい。
9.遠藤松斎
謙安先生の子で諱(いみな)を常尹といい、孫三郎と称した。藤学を篤く信じ、良く諸生を誘導していた。重い病いの時でも、諸生に学問を講義し、討論なども怠らなかった。村人の話では松斎は「諸子(学ぶ者)が藤樹学を研鑽し、徳行を実践してくれれば、自分は死を恨まない)と喜んで言ったという。享保19年(1734)に没し、岩崎村の太用寺に埋葬される。
10.森代松軒
五十嵐養安先生の二男で、諱は元好、名は平兵衛という。故あって森代氏を名のり熊倉に住む。熱心に藤学を学び、しばしば京郁の岡山先生を訪ね、道の何たるかを問う。延享3年(1746)7月8日没す。年71歳。岩崎村の太用寺に埋葬される。
11.東條清助
方秀先生の嗣子で、諱は方義と称し、熊倉組の郷頭を勤める。才知と徳行の人として知られ、母方は貞淑をもって世間に知られていた。東條氏一家は皆、賢者となるべく研鑽し藤樹学を求めていた。方義が十三歳の時、父母の指示で京都に登り岡山先生に直接教えを受けることを告げられる。先生は若い方義の才徳を愛されていた。成長するにしたがい、博い知識と非凡さは三子亡きあと、松斎・松軒・方義の三人がともに、各々その学風・学統を継承し、その功績は大きい。享保3年(1718)11月17日没す。年54歳であった。
12.小池七左衛門
会北高吉村の村長(肝煎)を勤める。諱は常矩と称す。藤学を信じ、前三子の教を受け講義には必ず出席していた、よく後輩の者を導き、志かたく、意志堅固で剛健な人柄は、他に比べ滅多にいない人である。寛延三年(1750)85歳で没す。
13.田中泰庵
会津若松の医師で上高額村に移り住み、藤学に入門している。常に言っていたことは、秀れた医者は国を治し、その次に人を治す。自分は儒者ではないから国の病を治すと。享保17年(1732)9月22日81歳で没す。
14.平塚多助
藩士坂氏一家の管理にあたる家臣の長であった。始め禅学に入ったが、三子の徳を慕い儒学に入る。島影子と同じ頃である。
15.矢部文庵
小荒井村の人で諱は惟定、名を甚次郎と称し、酒造を家業とし総四郎の甥であった。江戸の二見直養に師事し、その学を成就し、会津に帰り会北の諸生に教授している。江戸にいたとき、浜名恒久という者か、文庵を一目見ただけでその徳に敬服し、のち会津に来て文庵を訪ねている。しかしその頃、文庵は重い病にかかり話すこともできなかったことから、恒久は大息(ためいき)し失望して江戸に帰っている。宝暦4年(1754)7月15日没す。
16.島影文石
藩の家老西郷近張一家の家臣を統轄する長で、安右衛門と称し、博学多識な者であった。江戸の藤学者二見直養に親しく接し、良知の学を体得し、また三子の亡きあとの藤樹学の一人として門人も多く、二見翁の芳翰録なども著している。
17.東條清蔵
諱は次賢、熊倉組と小沼組の郷頭を勤める。方義の子で、方秀の孫にあたる。性格は物事に厳格で不正を嫌い、村の人たちは皆、おそれ、慎んだという。延享2年(1745)12月23日没す。
18.東條東林
清蔵の異母弟で諱は成徴といい、清右衛門と称す。藤学に篤く、家は貧しくとも学問の楽を改めることはなかった。天明3年(1783)85歳で没す。
19.淵貞蔵
東條次賢の長男で諱は惟伝。学問に熱心で徳行のある人であった。岡山先生の長男半平が早世したため跡継が無かったことから、岡山派の諸子たちは半平の子女に会津の貞蔵を迎えて岡山家を継がせることになった。貞蔵は京都御所をはじめ、公卿からしばしば講話を依頼され、師として迎えられていた。天明6年(1786)70有余で没する。坂内親懿すなわち北川恕三はかつて京都に登った際、貞蔵とその子良蔵父子に会い、他に数人の門人を交えて、藤学の講義を聞き、論議・論究して帰る。この時の会に参加した者は、親安喜安・一橋玄賀・野原三右衛門・渡部嘉兵衛・野村又四郎・平田此右衛門・小野右衛門尉・村上勾当などであった。
20.東條新左衛門
次賢の二男で諱は方堯。惟伝淵氏の弟である。熊倉組の郷頭を勤め、藤学を学んで善行のある人である。安永7年(1778)8月17日61歳で没する。
21.井上作左衛門
小田付村の村長(肝煎)で、諱を友信、国用と称し、安貞の兄である。兄弟ともに藤学の道を談じ、朱子学者として知られる中国の程明道(1032~85)、程伊川(1033~1107)のような人である。のち職を辞して老母に孝養を尽し、正徳元年(1711)7月15日54歳で没し、岩崎の太用寺に埋葬される。
22.井上安貞
友信の弟で諱を国直といい、忠左衛門と称す。藤学を島影文石、矢部文庵に学び、中野義都・矢部湖岸・東條次慎・坂内親懿らを友とし、後の三子の一人として藤学の研鑽に励み門人も多かった。寛政2年(1790)正月17日74歳で没し、小田付村の万福寺に埋葬される。
23.矢部湖岸
矢部文庵の子で、五十嵐養安の末子養元の三男で諱を直言といい、覚右衛門と称す。中野義都・井上国直・坂内親懿などを友とす。講義、研鑽のない日はなく、薄命によって村の子弟の教育に携わり孝悌忠信の道を教える。藤学の会座は一日もかかすことはなく、諸生とともに励んだ。徳行の人であった。享和2年(1802)9月16日85歳で没し、岩崎村太用寺に埋葬される。
24.栗村伊右衛門
北郷塩川村の人で藤学を信じ、誠実な人として知られ、人々はその言動を信じて疑うことはなかった。
25.鈴木佐助
北郷下窪村の村長(肝煎)で、藤学を信じ、正義のための勇気を惜しまない人で、70余歳で没している。
26.五十嵐忠右衛門
北郷上高額村の村長(肝煎)で、高吉村の小池氏の子として生れる。諱を常成といい、村民からは徳のある人として慕われていた。安永9年(1780)79歳で没する。
27.東條新十郎
諱は方知といい方堯の跡継で、祖父に継いで藤学を信奉した人である。
28.北川親懿
北郷漆村の人で助十郎と称し、小沼組の郷頭を勤める。孔子の三恕の道の教えから、それを号とし、思いやりの心を実行した人である。医学を修め、聡明で博識、多くの和漢の書を読み、詩や和歌にも秀れていた。なかでも藤学を信奉し、良知の微妙を追究して北郷の門下諸生からの尊敬、信頼が厚かった。そのため藤学を学ぶ者が多く、藤学の隆盛をみている。中野義都・井上安貞との交りは水魚の中で、中野の神道の奥義は悉く親懿に伝授されている。当時、斯道(藤樹学・神道)において、最も尊ばれた人で、その名は全国に聞こえていた。親懿の没後は、藤学が衰微し、諸生にとっては暗夜に灯火を失ったも同然であった。門人も多く、また多くの書を著している。文政元年(1818)81歳で没し、漆村本宮山に埋葬されている。
29.東條武右衛門
諱は次慎。上高額村の村長(肝煎を勤める。幼少時は権右衛門と称した。諸生は権州と呼んでいる。博識多芸な人で、井上安貞・中野義都に教えを受け、なかでも中野義都の神道を伝授されている。会津藩主容頌公の時に編纂された『日新館童子訓』の中に、次慎の徳行を掲載している。不幸にして安永5年(1776)47歳で早世している。
30.栗村以敬
塩川村の人で諱を珍英、谷右衛門と称した。藤学を信奉し、徳行の人として知られ、よく諸生を教導し、藩からは北郷の幼学校の助教を命ぜられていた。文化11年(1814)3月26日78歳で没する。
31.東條廣右衛門
東休の兄弟の子で、家は貧しかったが、それに動ぜず厚く学問を信奉し、父母には孝の限りを尽し、父祖に対しても、同様に心に辱じない孝を尽している。
32.矢部徳次右衛門
湖岸の継嗣で諱を直麗という。よく学に勤め、その探究心は一般諾生より秀れていた。
33.中野義都
会津藩士で理八郎と称し、のち作左衛門と改めている。号を惜我といい、理由があって上高額村に住んでいた。20余年の間、井上安貞・矢部湖岸・坂内親懿と親交の仲にあった。はじめ藤学を学び、その真髄を語り、さらに吉川神道の奥義を得、これらふたつを継承している。博く和漢の書を読み、詩・和歌をつくり弓剣術や兵学にも秀れ、実に多学・多芸の人であった。 身振り容貌は貧相であったが、天命に逆らわない生き方は当世の偉人といえる。
34.加藤銀蔵
北郷芦平村(喜多方市熊倉町雄国)の村長(肝煎)を勤める。坂内親懿について藤学の良知を学び、中野義都にっいて神道を学ぶ。神道では神道講得の証状を授けられる。和歌を作ることを好み、茅園先生を師とした。寛政10年(1798)2月12日50歳で没する。
35.新明半兵衛
北郷の某所の人で諱は宗廣といい藤学を信奉し、努力して知徳を磨いていたが、不幸にも早世した。坂内親懿の惜しんだ人物であった。
36.長島平七
小荒井村の人で諱は富修といい藤学を信奉し、研鑽を怠らなかった。
37.石川与左衛門
北郷金川村(塩川町金川)の村長(肝煎)で、坂内親懿に師事し、学に励み怠ることはなかった。
38.五十嵐仁右衛門
北郷上高額村の村長(肝煎)で、学問に熱心な人として知られ、なかでも藤学の信奉者であった。
39.矢部甚次郎
惣四郎の子孫で諱を惟督といい、貧しさに安んじて、藤学に励んでいた。藤学が日に日に衰微し道統の絶えることを歎き、その思いを強くしていた。中江藤樹の真翰を親馨に伝え、藤学を親馨に託し、親馨は泣いてこれを受けている。
40.坂内伊兵衛
親懿の跡継で親馨の父である。諱を親陽といい朋友と交って信頼されていた。よく父業を続け、寝ても覚めても良知の教えを守り、死に瀕しても親馨と謀り、藤学の再興の事を案じていた。郷里の人々は皆その徳行に服している。天保7年(1836)71歳で没し、漆村本宮山に埋葬される。
41.井上忠左衛門
安貞の跡継で父業を継ぎ、熱心に藤学を信奉している。小田付村満福寺に埋葬される。
42.矢部寛左衛門
小荒井村の人で直麗の跡継ぎで藤学を信奉し、信義に厚い人であった。
43.穴沢準説
塩川村の人でのち小荒井に移住。医者。藤学を信奉している。
44.三浦友八
北郷入田付村の人で、諱を親馨、のち改めて常親という。実は坂内恕三の孫で、親陽の二男である。
一馬の附記 会津の藤学は北郷の三子(五十嵐・遠藤・東條の三人)から曽祖父の恕三にいたるまで、その教えは隆盛をみ、学徒の数は千人を下らなかった。
諸子の中には後継者とされる者がいても、形はあっても実のいない状態で、親馨の深く歎くところであった。常に復興させなければと志はあったが、嘉永(1848~54)・寛政(1789~1801)以降は内憂外患の時代で、天下は騒然としていた。藩主松平公は京都守護職にっき、国をあげて武備に務め、藤学の講座も開くいとまはなかった。 戊辰戦では会津の四方に兵を受け、城は落城、先人(親馨)もまた病にかかり、長患いの身となり、床から離れることなく、明治17年(1884)77歳で没した。ここに学統は絶え、親馨の残念に思う心は知るよしもない。しかし幸いなことに学統譜が家に保存されており、これが定本かどうかはわからないが、会津藤学の一斑を知るものといえる。これも先人の賜であり、人の徳行によるものである。先人(親馨)は博く書を手にし、書を著し、その書や雑録も多いが、近隣の人は理解することができなかった。一馬は生まれて、他家で養育され、遠く若松にあったため、膝もとでその教えを受けることができなかった。年をとった今、道統譜をまとめることができ、感慨もひとしおで涙がとめどなく流れて止まない。大正5年(1916)
45.眞宮謙長
北郷稲田村の人で医を仕事としていた。
46.穴沢元章
準説の子で、のち父の名を襲名し準説を号とする。一馬の附記。藤学の伝統者で藤樹先生の書翰の巻物を所持。穴沢元章で筆を止めている。この時、元章は重い病気にかかっており、眞宮謙長に返している。謙長はそれを受け取り、先人親馨に伝えている。そのことは手東巻末に詳しく記載している。
47.大島如水
会北北郷の中の明村の村長(肝煎)で藤学を木村、松本の二子に学び、島影文石・赤城誠意と同時期の人である。
48.森雪翁
若松の人で諱を守次といい、与兵衛と称している。岡山先生の教えを受け、孝行者として聞こえ、『会津孝子伝』にも載せられている。
49.赤城誠意
宗兵衛と称し、若松北小路町に住み、町名主の職にあった。藤学を江戸の二見直養に学び、孝行者として聞こえ、その行状は『会津孝子伝』に詳しい。
50.磯部源左衛門
会津北郷笈川組の郷頭を勤め、八九郎と称し、親しく岡山先生の学を学んでいる。父母に孝行を尽くし、忠義の心が強く、勇気のある人であった。藩士樋口義光の兵学、剣法の先生として仕え、家にあっては家訓をつくり子孫を戒めている。