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中江藤樹の学問を信奉した人々

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日更新

  江戸時代の延宝年間(1673~81)喜多方や会津若松には、近江聖人と呼ばれた中江藤樹(なかえとうじゅ)(1608~48)の学問を学んだ人々がいた。その学問・思想は藤樹学の正統派を継承した淵岡山(ふちこうざん)(1617~86)を師とする教えであった。

徳川幕府の成立により封建社会が確立し、その権力の維持のために君臣関係の規正、身分的差別を重視するなどの教えを多く含んだ朱子学が教学の基礎とされ、他の学問は異学として禁止されていた。しかし、庶民にはあまりにも観念的な朱子学は馴染めないものがあり、もっと実際に役立つ実学的なものを求める傾向にあった。


 そのような中、寛文の初め(1661~)若松の町医師大河原養伯荒井真庵は京に上り、そこで藤樹の学問を教え広めていた淵岡山に行きあり、それを学び持ち帰った。そして当時、若松の稽古堂主であった無為庵如黙(1627~91)らに伝え、さらに小荒井村(喜多方)の矢部惣四郎に伝えた。
 大河原養伯と荒井真庵はもっとに深く学ばせようと小荒井村の矢部惣四郎を京都の岡山のもとに遣わした。岡山は「四方に使えて君命を辱ず」と、矢部惣四郎の才知と藤樹学の真随を堅持する誠実な態度をほめたたえている。
 矢部惣四郎は31歳の若さで夭折するが、この学問は「前の三子」と言われた五十嵐養安(小田付)、遠藤謙安(上岩崎)、東条方秀(上高額)らに引き継がれ、北方地方を中心に広がり発展していった。
 淵岡山自身も天和3年(1683)会津に来遊している。
 また同年の12月、その盛んな様子をみた藩は、「心学の学びを相止め侯様に」と禁令を出した。 しかし、前の三子の答弁などにより、2年後の貞享2年(1685)、誤解もとけ禁止令は解除された。
 その後、安永(1772~81)・寛政(1789~1801)年代と藤樹学は隆盛をみた。前三子の時代に次ぐこの時代の指導者を「後の三子」と称している。
 「小にして学を好み、老にして怠ることなし」と言った小田付村の井上安貞(1726~90)、 五代藩主容頌の侍講に任ぜられた中野義都(1729~98)、町学校(幼学校)の教師に迎えられた小荒井村の矢部湖岸(1717~1802)の3人である。
 また、会津藩も寛政改革(1789)以降は、日新館の教科内容に萩生徂徠の学問とともに藤樹の学問を受入れるなど、日新館の教育にも影響を与えた。


 文化年間(1804~18)から幕末(1866)にかけては、稲田村に生まれ小沼組の郷頭を勤めた坂内親懿(1738~1818)、親懿の孫で入田付村の三浦家の養子となった三浦親馨(1808~84)が、藤樹学の普及発展に力を注いだ。しかし明治17年(1884)77歳で世を去った親馨を最後に、220年余続いた会津藤樹学(心学)の学統継承者は絶えることとなった。


 このように藤樹の学問は多くの人々によって学び継がれ、脈々として北方地方の人々の心の柱になったのである。 継承者が絶えてしまったとはいえ、現在のわれわれの生き方の深層にはこの教えが生き続け、少なからずも影響を与えているのかもしれない。


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