東條方秀の略歴
会津北郷上高額村(現・喜多方市関柴町上高額)の人で、村長(肝煎)を勤め、名は長五郎、諱(いみな)は方秀という。その学問を淵岡山に学び、孝行の人として知られる。会津藩候から表彰され、『会津孝子伝』にも載せられている。兄は田辺一夢といい、新井田村の村長(肝煎)で禅学にも造詣が深い。元禄9年(1696)2月17日没する。『十八箇條問記』を著している。
親しくお互い感化し合い、藤学を信じ学んだ藩士の中には、落合権太夫・伴清左衛門・一柳氏名不明・大原六太夫・牧原源六・同只右衛門・村越七右衛門などがいる。
方秀の人柄については、『新編会津風土記』熊倉組上高額村の褒賞の項に、通称名の近右衛門で以下のように述べられている。
「此村の肝煎を勤る三十年計、よく村民を教導し終に訴訟の事なし、またよく人を恵て貧き者に米を与え、或は人参の類価貴く民間の力に及ばざる品を貯え置きて病者を救ひ、猪苗代辺より良材を求めて境内の橋をかけ己が費用を顧みず、生付学文を好みて経史記録など集置きて、暇のある日は常に披見し、近き譬をあげて人にも言い聞かせけり。或人善にほこらずとは如何なる事ぞと問へしに、それは顔子の受用なれば、吾儕の弁ふべき所にあらざれども、その一端をいはば、或日我下部二人山に入て材木をとりしに、一人は力たくましくして大きなる木二本負来り、一人は纔に一本を負来りしが、力強きは声高に詈りほこらはしげに見え、今一人は材木をそこそこに取りおさめ、掃除などせし様愛ありて見ゆ、凡て己が善しと思へることは人にも憎まれ、自ら非なりと思へるとは還て人の心にかなひ、神明も加護あるべしと云しとぞ元禄九年に身まかりしかば、後に其子清助を本組の郷頭とす。」