社会福祉の母 瓜生岩子
あなたは知っていますか
喜多方が生んだ社会慈善家 瓜生岩子を・・・
明治時代の初めに社会慈善家として活躍し、今日の日本社会福祉の礎を築きました。
その功績により、藍綬褒章を受けています。
おさない日
瓜生岩子は、幕末の文政12年(1829)に小田付村(現喜多方市)に生まれ、油商を営む若狭屋の長女として恵まれた家庭に育ちました。
しかし、岩子が9歳の時に父が急死し、おいうちをかけるように火災で家も焼けてしまい、幼い岩子は母と弟の3人で母の実家である熱塩村山形屋に身を寄せて少女時代を過ごすことになります。
活動の原点
14歳になって岩子は、叔母の嫁ぎ先である会津藩御番医師の山内春瓏のもとに行儀見習いに出ました。御番医師というのは、4~5日置きにお城に出勤して、勤番の侍に急病があったとき、診察・治療する役目で、非番の時は自宅で一般の人々を診察していました。
岩子がここで見たものは、貧しいがために子どもを気の毒な目にあわす悪習や食べ物が十分になくて満足に育てられない環境でした。岩子はこれを深く憂い、このときの体験が後の岩子の活動の原点になったといわれています。
結婚そして禅師の教え
岩子は17歳で結婚し、呉服商「松葉屋」を営みながら、一男三女をもうけましたが、父のように慕っていた叔父山内春瓏が亡くなると、33歳の時には夫と死別、翌年には母をも亡くしてしまいます。つぎつぎと降りかかる不幸に岩子は嘆き悲しみ、母の菩提寺である示現寺の禅師に「・・・いっそ尼になりたい・・・」とその心境を伝えると、禅師は岩子を一喝し、『世の中にはお前以上に不幸せな人は大勢いる。お前のこれからの一切を、もっと不幸な人のためにささげなさい。情けのすべてをかけなさい。お前は他人の喜びを自分の喜びとすることができる人だ』と諭しました。それ以後、岩子はわが身を投げ打って貧しい人々や孤児等、苦しんでいる人たちを懸命に救い続けていくことになります。
活動の広がり
戊辰戦争(1868)の時には若松に駆けつけ、敵味方の区別なく負傷者の手当てに奔走し、喜多方に「幼学校」を建てて士族の子女の教育に尽力するなど、男性も及ばない活躍ぶりを示しました。
また、43歳で東京に出かけて、窮民救済のやり方を学び、喜多方へ帰ってきますが、やがて活動の場は喜多方から福島に移り、福島県全域を対象に健全な育児を促すための教育会を各郡に設立するよう働きかけたり、飴粕利用の講習会を開催したり、現在の福島愛育園の前身である「福島鳳鳴会」に育児部を設け、常に貧しい人々のことを考え、子どもたちがよりよく育つようにと努力しました。
第1回国会(1891)には、女性として初めての請願書「婦女慈善記章の制」を提出し、婦人層の活躍を促すことを考えました。また、同年63歳の高齢にもかかわらず、渋沢栄一の要請により東京養育院幼童世話係長を引き受けて上京し、約半年間ほど勤めています。
永遠の慈愛
これらの活動から、岩子の名はますます高くなり、指導を望まれて喜多方へ帰った岩子の助言で若松・喜多方・坂下と次々に育児会ができ、産婆研究所が設けられ、生活困窮者のための私立済生病院(若松)をつくり、福島瓜生会は東京に支部を設けました。そして、明治29年(1896)には藍綬褒章を受けています。
岩子は明治30年(1897)に亡くなりました。69歳でしたが、その一生は、私心なく、常に社会の弱者の味方となり、子どもの健全育成に努め、まさに仏の菩薩行と評されるものでした。