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「慶徳稲荷神社の御田植祭」開催日の変更について

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年6月14日更新

 「慶徳稲荷神社の御田植祭」は、平成31年3月28日に、会津美里町の「伊佐須美神社の御田植祭」とともに、「会津の御田植祭」として国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。

 「慶徳稲荷神社の御田植祭」は、これまで半夏生(7月2日、閏年は1日)に開催してきましたが、今後の「祭りの継承」ということを第一に、小・中学生を含めた地域の方が参加しやすくするため、開催日を以下のとおり、変更することとなりました。

 

1 指定名称・保護団体・祭日等

指定名称  会津の御田植祭(あいづのおたうえまつり)
所在市町村  喜多方市  会津美里町
祭りの名称  慶徳稲荷神社の御田植祭  伊佐須美神社の御田植祭
保護団体  慶徳稲荷神社御田植祭保存会  御田植祭祭典委員会
祭  日  半夏生(7月2日、閏年は1日)
 ⇒【変更】毎年7月第1日曜日(令和6年度~)
 7月12日

 

2 会津の御田植祭とは?

 御田植祭とは、神田(しんでん)などで氏子が儀礼的な田植えを行って豊作を祈る祭りのことをいい、西日本を中心に広くみられます。会津地方は、江戸時代以前から行われている御田植祭の日本の北限に位置し、その分布を考える上で非常に重要です。

 また、会津の御田植祭にのみ、「デコ人形(田植人形)」と呼ばれる独特の人形が登場します。これは「田の神の依代(よりしろ)」とも考えられ、田植えの際には田の畔に立てられてます。

 このように、地域的特色も豊かであり、稲作に関係する農耕儀礼を考察する上でも大変貴重です。会津地方の御田植祭で、今日まで伝統的な形を継承しているのは、慶徳稲荷神社、伊佐須美神社の両御田植祭のみとなっています。

神社境内に立てられるデコ人形 祭り前に神社境内に立てられるデコ人形

大正時代の 大正時代の慶徳稲荷神社の御田植祭

 

3 「慶徳稲荷神社の御田植祭」の歴史と特徴

 慶徳稲荷神社・伊佐須美神社の両祭とも、その始まりは中世にまで遡ります。慶徳稲荷神社は、明応年間(1492~1501)、慶徳村の地頭であった平田石見守(ひらたいわみのかみ)が神田を寄進したことが始まりとされています。江戸時代に入って一時中断しますが、会津藩の庇護もあり、天保5年(1834)に再興され、今日まで継承されてきました。

 祭りは、社殿での神事の後、地区内を神輿(みこし)が渡御(とぎょ)して、神田で早乙女による田植えが行われます。慶徳町では、神輿渡御に狐の面と農具を持った子ども達=白狐(びゃっこ)が加わり、早乙女が田植えを行う際に苗を投げ入れ、田植えを手伝います。これは、慶徳町でのみ見られる光景で、白狐は市立慶徳小学校男子児童、早乙女は女子児童が担当します。令和4年度からは、市立喜多方第一中学校生徒も参加しています。

神田での早乙女による田植え、白狐が苗を投げ込む 神田での早乙女による田植え、白狐が苗を投げ込む

御田植祭時の神社境内の様子(昭和30~40年代) 御田植祭時の神社境内の様子(昭和30~40年代)

 

4 「慶徳稲荷神社の御田植祭」の祭日について

 「会津の御田植祭」は、平成27年3月2日に国から「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として選択され、平成27~29年度の3年間で調査を実施しました。

 その際に、慶徳稲荷神社の土蔵から「当山御田植祭願書幷御差図之控 別当光隆代」という文書が見つかりました。これは天保5年(1834)~13年(1842)までの会津藩に提出した文書の控えで、これにより、御田植祭再興の経過が分かります。

 慶徳稲荷神社の御田植祭は、明暦2年(1656)に途絶えましたが、天保5年の大飢饉を契機に「気候順時五穀成就祈」のため、会津藩に祭事執行を願い出て、再興が認められたものです。その際は、若松、猪苗代、高田、坂下、塩川、熊倉、木曽などの各地に辻札が立てられ、広く周知されました。ここから判明する御田植祭の祭日は以下のとおりです。

和暦 西暦 祭日(旧暦) 祭日(新暦)
前々 8月1~3日 9月
天保5年 1834 5月18日 6月24日
天保6年 1835 6月1日 6月26日
天保7年 1836 5月24日 7月7日
天保8年 1837 6月15日 7月17日
天保9年 1838 5月11日 7月2日
天保10年 1839 5月23日 7月3日
天保11年 1840 6月4日 7月2日
天保12年 1841 5月14日 7月2日
天保13年 1842 5月24日 7月2日
嘉永3年 1850 5月23日 7月2日
嘉永4年 1851 6月4日 7月2日
嘉永5年 1852 5月15日 7月2日
嘉永6年 1853 5月26日 7月2日

※嘉永3~6年は、「嘉永三戌年 御田植祭御差図控 光宰代」から抜粋

 かつては、「慶徳の御田植祭までに田植えを終えれば稲は実る」といわれ、田植え終いの目安とされていました。上表によると、天保11年以降は、毎年半夏生に祭りが開催されていることが分かります。半夏生に祭りが開催されることになった理由として、半夏生までには皆が田植えを終わらせるため、村の全員が祭りに参加でき、楽しむことができるという側面もあったものと考えられます。


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