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予想以上の難工事

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月4日更新

 雄国沼の水を利用する場合、まず水の出口に堤防を築き、沼に多くの水を貯える必要があった。その上で沼の西側の山にトンネルを堀り、そこから水を出すようにすることであった。堤防の工事はそれなりに進められたが、小沼峠にトンネルを掘る工事は当時の技術では大変に難しいものであった。

1.雄国掘抜堰工事

 第一の事業は、雄国掘抜堰の工事である。雄国沼の水域を拡張し貯水量を増やす「雄国沼堤防構築工事」から始まる。
 「十五丁四方の雄国沼」を「雄子沢をやや下った所に長さ百十五間、巾八間、高さ、二間の堤防を築くと新沼面縦百五十間、横百十五間にして深さ九尺に水を湛え面積にして旧沼の三倍以上となし、その排水口を元の雄子沢に設ける」計画であった。
 雄国沼の東辺に石の小祀を建て、水神様をまつり、大工事成就祈願を行い、そののちとりかかった。

2.小沼峠中腹の掘抜隧道(トンネル)工事

 続いて、雄子沢川流域の水を大塩川流域に引くための「小沼峠中腹の掘抜隧道工事」の仕事にとりかかった。
 小沼峠水洞門の開削は、全長180間で高さ5尺、幅4尺という小坑内での作業であり、硬質の岩盤にあたり、坑の屈曲や掘り違いもでるなど、難工事となった。結局、着手時の「約出費百両で半年位で掘り抜ける」という計画であったが、実際には、延べ7000人の人夫、670両余りと多額の費用がかかり、昼夜休まずフルタイム体制で行ったにもかかわらず、満3カ年を費やし、万治3年(1660)にようやく竣工したのである。
 これに対応するために平左衛門は、自らの貯えを使い、家屋敷を売却、あげくのはては子どもや使用人まで質にいれて借金をし、資金を調達することになる。

3.戸石平よりの引水堀開削工事

 トンネルが完成すると、水を引く堰の工事が寛文元年(1661)から行なわれた。洞門の出口より雄国沢を経て戸石平より地域内の幹線用水路を作る「戸石平よりの引水堀開削工事」が行われた。
 トンネルエ事で多くのお金を費やしてしまったにもかかわらず、それ以降の工事では一族や縁故者の協力も得られた。
 寛文元年(1661)~3年と2カ年余りの日数をかけ、入植農民と近在の農民達の手をかりながら、藩奉行の援助と指導の下で、引水堀が導かれ、馬寄・芦平・本林・森代・獅子沢・七本木の6カ所の灌概と用水に供することとなった。
 その下流は勝本・高柳・吉沢・小沼・辻・金沢・宮ノ目・常世の灌概水となった。
 最終仕上げの工事も翌4年には完成するが、着工以来7年の歳月を要するという大工事であった。


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