雄国新田村の原風景
雄国沼全景
今から約350年も前、雄国沼の水を引いて新田を開発しようと計画した男がいた。その男の名は大塩平左衛門という。
初夏の雄国沼
満開のニッコウキスゲ
百間土手
雄国沼水門
雄国沼から水を引き小沼峠の山腹を180間(約226メートル)掘り抜く工事は、予想を超える難工事となったが、万治3年(1660)にようやく完成した。
雄国新田村遠景
雄国新田村は寛文5年(1665)には家数124軒、男338人、女239人、馬40疋、牛1疋で、高も300石2斗4合であったが、さらに方々から入植がすすみ文化6年(1809)には4集落に12の小名がつき、109軒の雄国新田村となった。同15年(1818)の調べでは1,293石1斗4合の石高になっている。
貴船神社(七本木)
元禄8年(1695)、平左衛門の死を悲しんだ雄国新田村の農民達は平左衛門の霊を平左衛門が生前に雄国沼工事の安全祈願をした貴船神杜(工事成功後、寛文5年に雄国沼より七本木に分神)に合祀して、冥福を祈った。命日旧3月17日には花祭を行った。現在でも、平左衛門様(貴船神社)と称えて崇敬している。
大塩平左衛門の墓(北塩原村大塩長泉寺内)
貞享3年(1686)2月17日、大塩にて不遇のまま世を去った。
「省巌道悟信士 五十嵐吉実塚 貞享三丙寅二月十七日塩塩丙寅二月十七日焉」と刻まれている。
大塩平左衛門の供養碑(獅子沢)