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雄国新田開発の父 大塩平左衛門

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日掲載

今から約350年も前、雄国沼の水を引いて新田を開発しようと計画した男がいた。その男の名は大塩平左衛門という。会津藩に開発を願い出て、その許可がおりたのは明暦3年(1657)のことであった。さっそく隧道(トンネル)工事を開始した。雄国沼から水を引き小沼峠の山腹を180間(約226メートル)掘り抜く大工事であった。予想を超える難工事となったが、万治3年(1660)にようやく完成した。満3年の歳月がかかり多額の費用を要した。その工面のため平左衛門は家屋敷まで失う。しかしその甲斐あって灌漑反別約70町(約6943)の雄国新田が開かれたのである。今も平左衛門は開村の父として人々から崇敬されているのである。

〈プロフィール〉
生年不詳~貞享3年(?~1686)。
五十嵐平左衛門吉実ともいう。耶麻郡大塩村の代官の家に生まれる。
平左衛門の祖先は、出羽国秋田の住人五十嵐淡路守頼常で、平左衛門はその21代にあたり、12代安房守清常がはじめて会津に来て、稲川荘田沢村10貫文の地を領し、18代和泉守吉常の時大塩村に移ったという。20代宮内小輔吉次は城主加藤嘉明より大塩の姓と100石の知行を与えられ、代官・桧原の関守を兼ねた。
保科氏の代になって、大塩平左衛門は引き続き大塩組(後の小沼組)の代官を勤めていた。代官は後の郷頭より少し上の身分であった。「加藤家分限帳」には、知行侍713人のほか、「在々知行被下百姓」として「七八石余 山之郡 檜原之新八」・「百石同郡(山之郡)大塩ノ平左衛門」ら22人の名がみえる。