旧甲斐家蔵住宅とは
※ 令和5年4月より、保存修理工事のため休館しています。
大正時代から残る大邸宅「旧甲斐家蔵住宅」
旧甲斐家蔵住宅は、甲斐家の四代目吉五郎が7年の歳月をかけ、1923年(大正12年)に完成させたと伝わる贅の限りを尽くした蔵住宅です。黒漆喰の外観や51畳の蔵座敷、螺旋階段など、現在のお金で約5億円ともいわれる豪華絢爛な建物は、国の有形文化財に登録され「蔵のまち喜多方」を代表する名所の一つとなっています。
建築当初の店蔵外観
現在の店蔵外観(保存修理工事前)
庭園より望む座敷蔵(保存修理工事前)
座敷蔵(保存修理工事前)
店蔵螺旋階段(保存修理工事前)
甲斐家の由来
※ 甲斐家所蔵「甲斐本家の由来」並びに「甲斐本家覚書」をもとに一部加筆修正しています。
1 信州から移り住む
元禄の初め、喜多方近在の吉志田村(よししだ)に信州の人、與市がわらじを脱ぎ、付近の開拓に当たったという。のちに吉志田から熱塩の奥、猿の倉(現在の三ノ倉)に居を移し、村のたばね役などに当たり、現在も末裔がその地に住む。文政5年(1822)2月、吉志田の威徳寺境内にある地蔵尊の修復を行った際、その礎石に、この甲斐家の先祖、與市の名が寄進者名として刻まれていたという。また、甲斐家のそもそもについて、五代吉五郎妻、コウは「京都からの落人」とも聞き及んでいた。
2 初代 吉五郎
幕末に至り、初代甲斐吉五郎は喜多方(現在の甲斐家所在地か)に移り住み、神職から酒造業に転ずる。以下、甲斐家の当主は、代々「吉五郎」を襲名する。初代吉五郎は、嘉永7年(1854)没。明治の初年頃は、ひきつづき酒造業に従事し、銘柄は「東郷」(とうごう)と称した。
3 三代目 吉五郎
三代目は麹つくりに巧みで、どぶろく用の麹をつくり、大いに繁昌した。また、なかなか経営の才があり、文明開化の機運を見て、製糸工場を興す。開港した横浜と盛んに取引して、家運を隆盛に導いた。
4 四代目 吉五郎
父の財をついで、家作、小作田の管理や、株の売買に当たる一方、子孫の徒食することを戒め、味噌、醤油の醸造をはじめ、分銅甲斐(ふんどうかい)の商号を用いる。当時すでに製糸工場と酒造業は廃していた。まちの発展にも関心が深く、喜多方中学(現在の県立喜多方高校)や郵便局の誘致などに進んで私財を投じたという。
また、生来普請を好み、男子一生の夢を豪壮な蔵座敷と主屋の建築にかけた。設計施工は、「棟梁 宇佐美與四郎」に依頼し、ともに京都から北海道までを旅して、名家を見学した。大正6年、工事に着手。大正12年、足かけ七年の歳月を費やして、蔵座敷・店蔵と、主屋・庭園が完成する。当時、この家に住む人は、四代目夫婦と、男5人女1人の子ども、五代目夫婦と子ども2人、番頭1人、蔵男3人、女中3人ほどであった。
「付記」
甲斐家のそもそもから四代目に至るこの覚え書きは、蔵座敷の建設をめぐるいきさつを明らかにするために、主として五代目妻コウの記憶により記す。
蔵座敷「烏城」の覚え
1 呼称のいわれ
烏城の名は、黒塗りの岡山城の別名「烏城」にちなみ、蔵の外壁を黒漆喰で塗り重ねているところから、「蔵のまち喜多方 蔵のうちそと」を執筆した朝日新聞福島支局の記者であった池内紀昭がこの著作のなかで使用した呼称である。
2 工事について
工事は全体の基礎固めに始まり、建築工事は棟梁のもと6~7人の大工が連日当たり、蔵の外側だけ出来たところで、従来の主屋を壊して仮屋敷に一家が移り、主屋を建て、最後に蔵の内部を造作するという手順で進められた。
庭工事は、石材を主に東京方面から搬入し、庭師 松本 亀吉が2~3人の弟子と泊り込んで、石材の敷きつめを行った。庭の基礎工事には連日90人程の人夫が取り組み、当時甲斐家では、人夫に対する湯茶の接待に人出が足りなかったため、毎日10銭札をお茶代として手渡した。そのため「お札を刷っているのでは…」との噂があったという。
3 部屋の配置について
蔵座敷は上段の間(21畳)、下段の間(18畳)、畳廊下(12畳)、総計51畳からなり、それぞれ、本床、脇床、上段の間には書院を配す。四尺幅の切目縁、大理石の浴室、手洗い。二階は家財を収める家財蔵をなす。
4 建築材料の銘木について
蔵座敷の建材は檜(ひのき)の無節を用いた「総檜造り」で、切目縁には二寸厚、四尺幅の欅(けやき)を敷きつめる。檜の堅さでは、唐紙・障子(いずれも紫檀の縁)の重量を支え切れないため、敷居に樫(かし)の木を埋め込むことによって、総檜を守り通している。
- 上段の間の床柱/鉃刀木(たがやさん)と四方柾の檜。書院の窓は黒檀(こくたん)。
- 下段の間の床柱/縞黒檀(しまこくたん)。
- 唐紙と障子の戸縁/紫檀(したん)。
- 壁/金雲模様(金箔)の大唐紙をはめ込み、壁地はどこにも見えない。
- 畳/昭和54年の畳替えまで一度も替えることなく使用できた上質な藺草のみで編んだ畳表。
5 経費について
建築にかかった費用については、すべて四代吉五郎が差配し、詳細はつまびらかでない。当時の金にして15万円とも30万円ともいわれているが、あくまでも憶測の域を出ない。(30万円は、米俵一俵が当時10円として、5億1,500万円に当たる。)
6 蔵座敷の用途について
たまさかの冠婚葬祭に当てる外は、四代目吉五郎が賓客を招き、酒宴を張るのをこよなき楽しみにしていたという。