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日本の音楽教育につくした人 青柳善吾

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日掲載

青柳善吾(明治17年~昭和32年)は、唱歌教育から音楽教育への転換の最初のきっかけをつくった音楽教育の先駆者であり、日本の音楽教育史を語る上で避けては通れない重要な人物である。唱歌教育が一辺倒であった時代に、音楽鑑賞の指導、作曲の指導、器楽の指導を自ら行った。それらのことをまとめ、三谷緑二、細谷六郎、小川友吉、喜多方六などのペンネームを使い発表した。

青柳善吾は、明治17年4月1日、福島県耶麻郡上三宮村(現・喜多方市上三宮町)の小川清吉とその妻キクの三男として生まれた。キクは産後の肥立ちが悪く翌年亡くなる。間もなく喜多方町緑町(現・喜多方市緑町)の青柳家に引き取られ育てられるが、養父母が亡くなると、再び小川家に引き取られ喜多方高等尋常小学校へ通う。その後、大沼郡宮下小学校代用教員、福島県師範学校簡易科入学、卒業後、安達郡下大田高等尋常小学校訓導、福島市福島第一高等小学校音楽科専科正教員となる。
明治41年4月、東京音楽学校甲種師範科に入学する。卒業後は各地(鹿児島・名古屋・横浜)の小学校訓導を経て、大正11年から昭和6年まで東京高等師範学校附属小学校訓導を勤める。その後、ドイツへ留学し、帰国後は武蔵野音楽学校の臨時講師、文部事務官などを歴任し、そのかたわら音楽教関連書を多数出版した。

晩年は、武蔵野音楽大学短期大学部教授となるが、昭和30年6月中旬、脳溢血を発病し、10月、病気治療のため退職する。昭和32年(1957)1月17日、永眠。東京都小平霊園に埋葬された。享年72歳。

主な音楽活動

  • 作詞:五月の歌(モーツァルト作曲)、とけいのうた(外国民謡)、水夫の歌(ドイツ民謡)など
  • 作曲:旧上三宮小学校校歌、岩月小学校校歌、熊倉小学校校歌、松山中学校校歌、上三宮中学校校歌(作詞・作曲)、熊倉中学校校歌、函館大有斗高校歌など

「五月の歌」の楽譜[PDFファイル/22KB]

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